志公会 |
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志公会
しこうかい
自民党内の政策集団一つで、「麻生太郎政策集団『志公会』」と言う。
マスコミ等では「麻生派」「派閥」とも言われる。
政治家は支持者の付託を受け、約束した政策実現に懸命に取り組まなければならない。 政策実現には政権の中心に位置し、党内基盤を強化し、上位の役職に就くことが実現能力を高めることになる。 併せて、大統領制ではない議院内閣制の日本では、議員との人間関係、役人との情報交換能力を身につけなければならない。 政治家一人で自らの大成を目指すには余りにも学ぶことが多く、尊敬する師匠との出会い、政策・政局について指導を受けることができる派閥に所属することが 有効だと思う。 派閥は権力闘争の源泉といわれているが、 それだけでは無く、自己研鑽の修業の場ともいえる。誰のために、何のために国会議員の立場を得たのかを考え続けなければならない。 国家・国民を考え、支持者の期待に応えることのできる政治家になるためには派閥で学ぶべきことは実に多い。 また、周りからチヤホヤされ絶好調だからと傲慢になってはいけない。一方、筋を通し、義理と人情を大切にしたために、冷や飯を食うこともしばしばある。使命と情熱を持ち続け、やせ我慢しながら、永田町の嫉妬の海を泳ぎ切らなければならない。 お国のためにお役に立つために! 1996(平成8)年以来、私、松本純は麻生太郎会長との出会いに感謝している。 |
麻生太郎政策集団と松本純の活動記録 |
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2024(令和06)年 | 麻生太郎会長は、志公会の経理システムを完璧に構築した松本純事務局長(当時)に感謝。(誰一人収支報告の記載ミスがなかった) | |
2023(令和05)年 | 統一地方選挙 5/8コロナ2類から5類へ 元に戻った「志公会と語る夕べ」 |
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2022(令和04)年 | 参院選挙 松本純は自民党復党と神奈川1区支部長復帰を成した 志公会事務局顧問に就任 | |
2021(令和03)年 | コロナ禍で例会開催にも慎重な対応 苦しい一年 | |
2020(令和02)年 | コロナ禍の「志公会と語る夕べ」 コロナ禍の「志公会と語る夕べ」2020アルバム 新型コロナウイルス感染拡大防止 |
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2019(平成31/令和元)年 | 参院選挙 | |
2018(平成30)年 | 例会・志公会と語る夕べ・夏季研修会 緊急総会→安倍総裁選挙に59/59票・志公会有権者全員投票 麻生会長のもと一致団結 |
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2017(平成29)年 | 志公会設立 新たな 体制づくり (為公会を発展的に解消し三派合流) |
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2016(平成28)年 | 参院選挙勝利へ | |
2015(平成27)年 | あるべき政策集団をめざして | |
2014(平成26)年 | 11月21日衆院解散、12月2日公示、14日投開票 | |
2013(平成25)年 | 参院選挙勝利でねじれ解消へ | |
2012(平成24)年 | 民主党政権を解散に追い込め! そして政権奪還! | |
2011(平成23)年 | 政権奪還を目指して 統一地方選挙勝利 | |
2010(平成22)年 | 野党自民党として 参院選大勝利 | |
2009(平成21)年 | 麻生は総理就任のため為公会離脱中 7月21日衆院解散 | |
2008(平成20)年 | 麻生は二度目の幹事長に 、第4回総裁選勝利し総理へ | |
2007(平成19)年 | 第1回為公会パーティー 、第3回総裁選 | |
2006(平成18)年 | 為公会設立 (大勇会を発展的に解消) |
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2005(平成17)年 | 麻生第2回総裁選、 「太郎会」設立、「為公会」設立 麻生太郎飯塚本家訪問 |
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2004(平成16)年 | ||
2003(平成15)年 | ||
2002(平成14)年 | ||
2001(平成13)年 | ||
2000(平成12)年 | ||
1999(平成11)年 | 大勇会設立 | |
1998(平成10)年 | 宏池会退会 | |
1997(平成09)年 | ||
1996(平成08)年 | 宏池会入会 |
麻生太郎の考え ●2008/02/25 私の地方繁栄論 ●2008/01/22 安心を取り戻すプラン ●2007/01/08 麻生太郎邸訪問! |
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麻生派の歩み |
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志公会(新麻生派)設立
為公会(44名)、番町政策研究会(10名)、天元会(6名)、以上三派が発展的に解消され、新たに志公会(新麻生派)に集結する設立総会が開かれた。59+1名を擁する第2派閥、新麻生派が結成された。 |
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為公会(麻生太郎政策集団・派閥)設立
「天下為公(天下をもって公となす)」
古代中国の経書、礼記の一説にある為政者の政治理念を説く言葉で、「大同の世界を建設する」の意である。政治的決断を迫られた幾多の局面において、常に私の頭にあった大切な言葉である。
2006(平成18)年12月19日 麻生太郎(会長)、中馬弘毅(座長)、鈴木恒夫(副会長)、鴻池祥肇(副会長)、森英介(事務総長)、山口俊一、岩谷毅、河野太郎、桜井郁三、井上信治、赤間次郎、鈴木馨祐、薗浦健太郎、浅野勝人、松本純(事務局長) |
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太郎会(麻生太郎を囲む超政策集団の会)
「太郎会」、これは私が勝手に呼んでいる名称で、麻生太郎招待懇談会とでも言うのが正式な呼び名かも知れません。麻生太郎さんの総裁選挙に協力した仲間と、ときどき懇親を深め、交流を続けようと麻生太郎さんから呼びかけられた会合です。それぞれの現在の取り組みについての話などで盛り上がりました。 この私が勝手に呼んでいた「太郎会」が正式な会の名前になってしまいました。毎月定例で、直接麻生太郎と語る会として、徐々に仲間の輪が広がったらいいな、と思っています。 |
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大勇会が独立旗揚げ(16名) 河野洋平(11期)、粕谷茂(9期)、相澤英之(8期)、石川要三(7期)、東家嘉幸(7期)、麻生太郎(6期)、中馬弘毅(6期)、江藤征士郎(5期)、鈴木恒夫(3期)、森英介(3期)、浅野勝人(2期)、亀井久興(2期)、栗原裕康(2期)、岩下栄一(1期)、河野太郎(1期)、松本純(1期)、以上に鯨岡兵輔(12期)が合流し、大勇会が旗揚げした。その時、麻生太郎先輩が松本純に贈った言葉が「義理と人情とやせ我慢」。 |
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大勇会(河野洋平グループ)宏池会離脱 当時の宏池会会長宮澤喜一氏が後継者として加藤紘一氏を会長に指名することが決定し、それに反発した河野洋平グループ15名が脱会することになった。 |
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政策集団で組織論を学ぶ |
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麻生太郎の涙と松本純の奮闘(未定稿) 2023/02/16(敬称略) ▼麻生太郎の涙 麻生政権末期・総選挙で自民党181名を失ったこと
2008年に総裁・総理に就任した麻生太郎は、2009年、任期いっぱいになり解散を打たなければならない時期到来。 リーマンショック対策でG20を新設し、IMFへ1000億ドル貸付、など国際社会に麻生太郎の名を轟かせるも、マスコミ世論は「一度民主にやらせてみろ」の大合唱。 自民党300議員の首を切 る解散を打つも、結果は119名に激減。麻生太郎は涙を流した。 2012年、 自民党議員の捲土重来を期し、安倍晋三の二度目の総裁・総理就任に向け決死の総裁選に立ち向かう。各派閥で「もう安倍はない」の党内雰囲気を覆し、決選投票に持ち込み、石破を破り安倍晋三の二度目の総裁総理が誕生。 その直後に行われた2012年総選挙で294議席を確保し、政権を奪還し、麻生太郎は贖罪した。
▼松本純の奮闘 麻生太郎総裁選と政策集団拡大への道 政局全般の情報を持ち、高い次元で判断するのが政策集団の長の役目。松本純は政策集団会長のもとで一致結束することが政治力の源泉と考える。 ≪初期の動き≫
1996年(平成8)年 松本純衆議院議員初当選 地元県市議の推薦で河野洋平先生の門を叩く。
1998(平成10)年12月21日〜
1999(平成11)年01月18日〜 ≪総裁選≫
1999(平成11)年09月09日〜
2001(平成13)年04月14日〜麻生挑戦1回目
2003(平成15)年09月20日〜小泉内閣・閣内の麻生は不出馬
2006(平成18)年09月08日〜麻生挑戦2回目
2006(平成18)年10月23日〜「太郎会」設立
2006(平成18)12月21日〜「為公会」設立(15名)
2007(平成19)年09月14日〜麻生挑戦3回目
2008(平成20)年09月10日〜麻生挑戦4回目で総裁・総理に就任
2009(平成21)年09月18日〜野党自民党の総裁選
2012(平成24)年09月14日〜自民党総裁選2012告示日・26日投票 ★(当時為公会会員は12名)⇒派閥内4名の意見不一致が出て、12名の一本化が出来ず麻生会長の面子を潰した形となってしまった。 ≪松本純の政策集団拡大作戦≫
2015(平成27)年09月08日〜自民党総裁選2015告示日
2017(平成29)年07月03日〜「志公会」発足
2018(平成30)年08月27日(月)晴れ時々曇り〜自民党総裁選2018に向け 為公会(麻生派)を一本化し、松本は麻生太郎会長を支えた。 以上 |