靖国神社 |
2005(平成17)8月9日 |
靖国神社と私
自然な気持ちで参拝したい
私の祖母(ツネ)の妹(静江)のご主人、山田忠太氏(海軍中佐)が8月9日に青森県八戸港で米軍航空隊に襲撃され、山田艦長は戦死されました。当時から祖母や静江らは共に戦った戦死戦傷者、その家族の皆さんと毎年この靖国神社にお参りに来ていました。いつごろだったか、小さな頃からそのときの話をよく聞かされたことを今でも覚えています。
横浜の中で育った私は、なかなか靖国神社まで足をのばす機会がありませんでしたが、平成8年に初めて衆議院議員に当選して以来、春秋の大祭、終戦記念日には、私か代理の者が欠かさずお参りにいきます。いつも思い出すのは山田艦長のことです。
私は日本の国を守る、つまり自分たちの家族を守るという強い思いをもって戦ったすべての先達に哀悼の念を持って敬意を表したいと思っています。そして苦労した鶴見の静江大おばさんのことを目の当たりにして、二度と我が国は戦争をしてはならない、どこまでも平和を求めて、それを 手放さない努力を続けなければならないと思うのです。
▼山田万里子さんに聞きました。
山田 忠太 (神奈川県愛甲郡出身)
日本郵船に長年勤務。日米戦争が始まってからは海軍少佐として戦いに臨みましたが、海防艦稲木(イナキ)の艦長として部下約150名と共に青森県八戸市の沖にて60年前1945年8月9日(終戦の6日前)アメリカ軍の空爆の為沈没。約20名の部下と共に沈没戦死(当時艦長としては生き残る事は許されなかった)してしまいましたが、他の兵隊は泳いで助かった
そうです。この空爆により八戸市は空襲はうけなかったと後日感謝されていました。1964年(昭和39年)船が引き上げられ遺骨として国より小石1ヶの入った遺骨箱が届
きました。戦死した部下と共に靖国神社へまつられ海軍中佐となり妻の山田静江が当時、部下の家族と共に靖国神社へ毎年お参りに行っていたとの事でした。現在は世話役の方達も亡くなり、静江、裕永も亡くなった現在、嫁の幸さんは息子たちと円福寺の墓にてお参りを続けて
います。山田静江は妻として生前は戦死者家族手当を受けていたが、死後、裕永が年間4万円遺族年金をもらっていたが、
裕永の死後は妹の山田万里子に渡されてるとの事でした。(平成17年8月9日)
山田艦長の「稲木」の名前も刻まれていました。
▼海防艦「稲木」の資料を見つけました。
下記のことが記されており、当時聞かされていた点と点がつながってきました。
鵜来級海防艦(14/20+2)
1943年4月戦時建造補充(○戦)計画海防艦第4701号艦として1943年4月臨時軍事費により三井造船玉野(岡山)造船所で1944年5月15日起工
1944年9月1日海防艦稲木と命名され呉鎮守府籍と仮定
同年9月25日進水
同年12月16日山田忠太中佐の指揮下に竣工し呉鎮守府警備海防艦となり呉防備戦隊に編入
同年12月17日〜26日呉寄港後佐伯湾で訓練に従事
1945年1月26日第1護衛艦隊に編入
同年1月27日呉入港
同年1月29日門司回航
同年1月31日南号作戦によりモタ34、ヒ95船団を護送
同年2月14日〜24日シンガポール寄港後ヒ96船団を護送
同年3月13日〜14門司寄港
同年3月15日呉入港後修理に従事
同年3月31日門司に回航中、福岡県部崎灯台132゜8.8nmの関門海峡で触雷、中破し呉に回航され修理
同年4月25日第12海防隊に編入
同年4月26日修理完了し門司入港
同年4月28日モシ05船団を護送して門司出港
同年5月4日〜8日上海寄港後シモ04船団を護送
同年5月15日〜16日鎮海寄港
同年5月19日〜23日佐世保寄港後中国沿岸で哨戒任務に従事
同年6月25日舞鶴出港後小樽港内で艦載機と対空戦闘(2機撃墜)
同年7月26日大湊出港
同年8月9日午前6時頃、青森県八戸港に仮泊中、アメリカ第38任務部隊搭載のF6Fヘルキャット戦闘機30、F4Uコルセア戦闘機15機による空襲に遭遇。午前9時頃、後甲板に直撃弾を受けて機械室大破、右舷大傾斜後夕刻になって沈没し山田艦長以下28名が死亡35名が重傷
同年9月15日除籍後解体
▼靖国神社について
明治維新直後の1869年に東京招魂社として創建。
1879年に靖国神社と改称され、日本の国家のために殉じた人々を「英霊」として祭り、陸海軍省直轄の神社として戦前の国家神道、軍国主義の精神的支柱に。
戦後は政教分離により民間の宗教法人となった。
遺族や生き残った戦友らから、国のために亡くなった戦没者を早急に靖国神社に祀るべきと議論沸き起こる。
支那事変から大東亜戦争にかけて戦没者が厖大な数になったことから民間宗教法人の靖国神社のみでは対応不可。そこで復員業務と遺族の援護業務を引き継いだ厚生省が戦没者を認定し、「祭神名票」を作成の上靖国神社に送付。これをもとに靖国神社が御祭神を合祀するという流れができあがった。
一方、いわゆる戦争犯罪人についてはどうか。国際法的に占領下にあった間、戦勝国による戦争裁判の結果処刑された場合、敗戦国内では「戦死」の扱いが基本。日本国内法上では犯罪人という認定はしない。そのため、昭和27年講和条約が発効し日本が国家主権を回復すると、昭和28年には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が昭和29、30年には「恩給法」の一部が改正され、いわゆる戦争犯罪人として処刑されたり、獄死されたり、あるいは裁判中に自決された方々やその遺族もその対象に含まれることになった。
1969年以降、国営化を求める法案が国会に提出されるなど、国家護持に向け活発化した時期もあった。
BC級戦犯として亡くなった方の「祭神名票」が昭和34年から靖国神社に送られ、合祀がなされる。
A級戦犯については昭和41年に死刑7名と受刑中に亡くなった5名の12名の「祭神名票」が神社に送られた(公判中に死亡した2名についてはどの時点で加わったか不明。この2名を加えA級戦犯は計14名)が、靖国神社の国家護持問題が盛んに議論されていたことに配慮してか直ちに合祀されず、さまざまな議論を経て昭和53年の秋季例大祭に合祀され、翌54年4月19日の新聞報道により国民の知るところとなった。
現在は太平洋戦争までの約247万人を合祀。
小泉首相は2001年の自民党総裁選で参拝を公約。
年1回参拝してきたが、中国など内外から強い反発がある。
※以上がいろいろなところで聞いた経過です。
▼靖国神社への参拝をどう考えるか
小泉純一郎内閣総理大臣は、靖国参拝について以下のように発言されています。
「戦没者に追悼の念を持って、敬意と感謝の誠をささげる。今の日本の平和と繁栄というのは、現在生きている人だけで成り立っているのではないんだと。心ならずも戦場に行って、家族や多くの愛する人たちと別れなくてはならなかった、そういう人たちの尊い犠牲の上に今日の平和と繁栄があるんだと。そういう方々に対して、心から敬意と感謝をささげたいという気持ちで参拝しております。そういうことから、これは人間の自然な感情だと思っております。」
まさに我が意を得たりです。
終戦後を境目にして、新たな日本として我が国の過去をすべて捨て去ることができれば良いのでしょうが、そうはいきません。良い悪いではなく、過去の現実と先達の積み重ねの上に現在があると考えることが大切だと思います。
私は初当選以来「靖国神社を参拝する国会議員の会」に登録しています。何よりも自然な心、人を思う感情を大事にすべきだと思います。とはいうものの、中国・韓国が小泉総理大臣 の靖国神社への参拝に反発していることも事実です。中国・韓国に対し我々の参拝に対する気持ちをどう伝えていくべきなのか、より良い答えを出せるようにこれからも苦しみたいと思います。