松本純の感動した講演 |
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2002(平成14)年8月1日
小泉内閣メールマガジン/[特別寄稿]
総理の演説(教育改革国民会議委員 曾野綾子)
曽野綾子氏(作家)
小泉内閣になって広報がどう変わるか、ということに私は興味を持っていた。私は政治についてはその哲学の部分にしか興味がないのだが、広報は自分の専門分野の一部のような気がして、どの組織のことも気になるのである。第一どんな政策が取られているか、それが正しく効果的に国民に伝わらなくては、国民の側にしても判断の方法がない。
昔から、大臣の挨拶でおもしろいと思ったものを私は聞いたことがない。財務省や経済産業省なら、大臣の挨拶が現実一本槍でも仕方がない、と思う。しかし文科大臣の挨拶にさえ、深い哲学や人間性を感じた記憶が昔からないのである。
それにも増して総理の演説は非常に大切だ。演説で、その人の思想、人格、性向のすべてが量られる。しかしいまだに小泉総理の演説にも国民の心に深く残ったものがない。それは政府が広報というものの恐ろしさをまだわかっていないからであろう。
総理がすべての演説を完全に自分の手で書かれる余裕はないだろう。とすれば周囲に文章の達人でもある教養人がいて、その人達が総理の言われたいところを充分に伺って、それを正確に文章にする、という難儀な作業に精根をうちこまなければならない。
しかしいつの時代でも、総理の側近は、自分に文章能力がないことを自覚しないらしい。
普通、人は歌が下手なら、「いいえ、私は音楽の才能がありませんから、とても歌など歌えません」と言ってその任を引き受けないものだ。しかし霞ヶ関には、文章の内容さえ正しければ、それでその文章は世間に出せると思う東大法学部的発想の人々が多いらしく、霞ヶ関独特の、人の心を全く打たない文章を作成して平気でそれを総理や大臣に読ませている。これは人に不備をつっこまれないことだけを目標にした守りの文章と言える。アメリカの歴代大統領のような、充分に聞かせどころをおさえた、後代に残るような名演説などとうてい書けない人たちである。
そういう人たちに、どうしたら自分の才能のなさを自覚してその任を辞してもらえるかが積年の問題なのだ。ことに外国における総理のスピーチは、総理の全人格と教養を示すだけでなく、ひいてはその国の姿を代表するものだから、非常に重大に考えなくてはいけない。
総理は、身近に、自分に代わって哲学的、知的、芸術的文章を法律的な内容に加味できる人たちのグループをお置きになることだ。できれば総理の昔からの友人などが加わると、自然の親しさを持ちつつ、しかし謙虚にこの作業を果たせるだろうと思う。
※ 執筆者の紹介 http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2002/sono.html