松本純の感動した講演 |
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1989(平成元)年1月20日
自民党第50回定期党大会
曽野綾子氏(作家)
本日ここに、日本の将来を深く憂いつつ、たくさんの党友の方々がお集まりになりましたことは、まことに意義深いことと存じます。
自民党による政権は、戦後長い間日本に安定と繁栄をもたらしたことは紛れもない事実です。しかしすべての存在は、同じような残酷な法則の下に置かれます。つまり、上りつめたら、下るよりはほかない、ということです。その時、さらに上り続けるか、あるいはもっと長い間水平を保ち続けるか、ということには、かつてなかったほどの自己規制や努力を必要といたします。
現内閣は、運命として、その最も難しい時期に巡り会うことになられました。その巨大な運命のエネルギーに対していかに抵抗して行かれるかを考えると、ひとごとながら恐ろしくなるほどのものです。
正直に申しまして、今日ここにお集まりの皆さまは、国民が現在自民党に対してかなり根強い不信の念を持つようになっていることに、あまり気付いておられないかもしれません。皆さま方の周囲に集まるのは、常に自民党のファンであり、人間は面と向かえば甘い言葉を口にする、という習性があるからです。
もちろん人間は基本的に誰でも間違いを犯すものではありますが、昨今の自民党への国民の失望は、今までといささか違った要素を持っているように見受けられます。それはたとえば先頃リクルート事件に関して、政治家は国民を愚かなものとなめて考えられました。そしてこの程度の説明や弁明をしておけば通るだろうと高をくくられたのです。慎みと誠実さを欠くすべての行為は、 傲岸さを示します。
しかしご承知のように、昔から日本人は、非常に懸命な、バランス感覚のいい人々でありました。皆さま方は常に「ノイジイ・マイノリティー(喧しい少数)」に触れておられるので、日本中の「サイレント・マジョリティー(静かな大多数)」の真の恐ろしさを、時々お忘れになるのかもしれません。
その背後には、政治家が真の意味でのコモンセンスと自己への厳しさを失って、恐れを知らぬものになる、という、慢性的な病状があるのかもしれません。
もちろん一つの現象が現れるには、すべての人に分散して責任があります。今日の政治に金が掛かり過ぎる理由には、国民の側にむしろ大きな責任があります。しかし、私たちはお互いに相手の非をならすことではなく、先ず自らを正すことから始めるべきだという大原則もまた、色褪せてはいないのであります。
私は、戦後の日本は、ずっと求愛の時代を続けて来たと思っています。恋人たちはお互いに相手からよく思われたい、という求愛の情熱に駆られているのですが、それと同じように、親、教育者、政治家からマスコミまでが、他人に憎まれるのを恐れ、あの人はいい人だ、あの考えはヒューマニスティックだ、という評判をとることに狂奔してきました。
しかし日本は、今や経済的に世界のトップを行く国になりました。すべての政治家が、政治の技術だけではなく、人間としての哲学を持つことを要求されるようになりました。それは人間完成を究極の目標とする孤独な闘いによって辛うじて得られるもので、求愛の心情などではとうてい追いつかないものです。
私は過去に少し聖書を勉強して、そこでギリシャ語のいろはをかじりました。「勇気」というものは、平和な時にこそ、一人一人の自己との闘いのために必要なものですが、ギリシャ語においては「勇気(アレーテー)」という言葉は、同時に「徳」「奉仕」「男らしさ」という意味も含みます。
かつて日本人の常識の中では、勇気のある人は蛮勇はあっても徳はなく、徳のある人は控えめで優しく勇気とは無関係、という考え方もあったように思います。しかし、ギリシャ人にとって徳と勇気とは完全に不可分のものでありました。
政治家になられる、ということは、自己の利益や権勢のために働くことではなく、人々のために自ら選んで死ぬ準備があると言えることでありましょう。それができないようなら、すぐにも私のように、卑怯者でも嘘つきでもどうにか勤まる職業に転職されることをお勧めいたします。
ともあれ、皆さまにとって、まさに働きがいのある時代が到来していることは事実です。私たちは長く生きるわけではありません。若い方々にとっても、時間は限られています。全力を尽くしてお働きになれますよう、ご健康をお祈り申し上げます。