松本純の国会奮戦記1950-1998

1950(昭和25)年〜1998(平成10)年

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1998(平成10)年12月21日

大勇会(たいゆうかい)宏池会を離脱

河野洋平先生と加藤紘一先生の確執が続いていましたが、宮澤喜一会長(宏池会)の会長後継を加藤先生に決定(22日に就任記者会見)したことから、宏池会内・河野グループ15名が離脱することになりました。麻生太郎先生からは「いいか、松本。離脱をするということは小さなグループで頑張らなければならない。ポストも何も期待できる状況ではなくなる。しかし、筋を通さなければならいのだ。義理と人情を通すならやせ我慢も必要だということを肝に銘じておけ」と心構えを学びました。

▼12月18日に覚悟を固めた河野グループ15名+1名

河野洋平(11期)、粕谷茂(9期)、相沢英之(8期)、東家嘉幸(7期)、麻生太郎(6期)、中馬弘毅(6期)、衛藤征士郎(5期)、鈴木恒夫(3期)、森英介(3期)、浅野勝人(2期)、亀井久興(2期)、栗原裕康(2期)、岩下栄一(1期)、河野太郎(1期)、松本純(1期)
以上に鯨岡兵輔(12期)が合流。

1999年01月18日〜大勇会が独立旗揚げ


1998(平成10)07月24日〜自民党総裁選1998投票

小渕(当選)225票・梶山102票・小泉84票


1997(平成09)09月11日〜自民党総裁選1997投票

橋本(無投票当選)


入会派閥は宏池会

自民党総裁を終えたばかりの河野洋平先生に連れられて、宮沢喜一会長(宏池会)に面談し、入会が了承されました。河野洋平先生は直接宏池会に戻りませんでしたが、河野洋平先生の仲間は大勇会という派閥内グループにおられ、麻生太郎先生のご指導をいただくことになりました。同時に当選した河野太郎先生も一緒です。


国会活動開始

右も左もわからない新人で、河野洋平先生のご指導をいただくことになりました。


1996(平成08)10月20日〜第41回衆議院議員総選挙

1996(平成8)年〜初めての衆議院小選挙区選挙に挑戦

ビギナーズラックで初当選

小選挙区初当選(1期目)(55,360票)

三つ巴の戦いで、866票差で当選を果たすことができました。市会議員同期の菅義偉先生も無事に当選。これからが楽しみです。


1995(平成7年)11月14日(火)

●神奈川新聞/毎日新聞

衆議院神奈川1区>自民は松本市議有力

 自民党の衆院神奈川一区(横浜市中区、磯子区、金沢区)の候補として十三日までに、中区選出の横浜市議・松本純氏(四五)が有力となった。近く同党一区支部の候補として、党県連に公認申請される見通しだ。

 松本氏は東京薬科大卒業で現在、横浜市議は三期目。市会青少年・市民スポーツ特別委員会委員長や党市連市民運動本部長に就いている。また、薬局を経営し、中区薬剤師会会長も務めている。

 一区はこれまで、新党さきがけを離党した佐藤謙一郎代議士(旧神奈川四区)と、新進党から前横浜市大事務局長の岡部正久氏、共産党から党県女性・児童部副部長の鈴木信子氏が出馬を予定している。

一区に松本市議浮上>次期衆院選で自民調整

 自民党の次期衆院選一区(横浜市中・磯子・神奈川区[記事通り、金沢区の誤り])の候補に、松本純横浜市議(四五)=中区選出=が十三日までに浮上してきた。選挙区内の市議らがこの日までに会合を開き、松本氏擁立で調整を図った。同党の一区候補には中央官僚らの名前が挙がっているが地元市議らの思惑が絡み、調整は難航していた。

 次期衆院選一区はこれまでに、新進党新人の岡部正久氏(五七)、無所属で現職の佐藤謙一郎氏(四八)、共産党新人の鈴木信子氏(六一)の三人が出馬を表明している。


1995(平成07)06月22日〜自民党総裁選1995投票

橋本(当選)304票・小泉87票


1990(平成2)年〜横浜市会議員補欠選挙に挑戦

わずか6年間でしたが3回の市会議員選挙に挑戦し、地元活動に取り組みました。


1980年代

地元の街づくりやJC活動に夢中

仲間との昼夜の活動活発に!


1978(昭和53)年

会社を退職し実家の薬局経営へ

薬剤師として地域の皆さんの健康に貢献

横浜市夜間急病センターで深夜勤務


1977(昭和52)年4月

結婚・長男誕生

私が17歳の時、15歳(中学3年生)の志村真純さんに一目ぼれ。1976(昭和51)年5月2日、9年お付き合いをして結婚しました。翌年4月4日に長男・大(だい)誕生。父母にならい、伊勢山皇大神宮お宮参りで、私の時と同じ場所で記念写真を撮りました。


1974(昭和49)年〜1978(昭和53)年

東京薬科大学を卒業しエスエス製薬株式会社に就職

ルートセールスのお得意さん回りに汗をかきました。


小学生時代

なんにでも挑戦させてくれた父に感謝!


1958(昭和33)年7月8日

●昭和33年、純が八歳の時の一大事

昔々のお話です。昭和33年に下記のようなことがありました。

松本純が8才のとき、
岸信介総理大臣から頂戴した色紙


岸信介総理大臣からの色紙             松本研(弟)と松本純とエボニィ

 

毎日新聞

1958(昭和33)年7月8日

写真をありがとう ≫ 岸さん、純ちゃんに礼状

≫ 色紙「明るく清く正しく強く」そえて

○…小学生から愛用の豆カメラで写された岸首相の写真と手紙を受け取った岸さんが自筆の「明るく清く正しく強く」という色紙と一緒に礼状をこの小学生に送ったという岸首相と小学生を結ぶほほえましい話。

○…この小学生は中区野毛町二-六五、松本薬局主人松本屯(たむろ)さん(三八)長男本町小二年純ちゃん(八つ)で、去る五月二十一日の昼下がり藤山外相の選挙応援演説に来浜した岸さんを桜木町駅前に見に行った際、純ちゃんは人垣をくぐって群集の前に飛出し、熱弁を振るう岸さん表情を愛用のスーパーエボニィ35でみごとキャッチ、引伸ばして送ったのが機縁となったもの。

○…「この写真はこの間ボクがとったものです。よくとれたので送ります。ボクは一生懸命勉強しますから岸さんも日本のために働いて下さい」−このいじらしい手紙とともに写真を受取った岸さんはすっかり感激。七日自ら筆をとってお礼の手紙を純ちゃんに送ったが、これを聞いた純ちゃんは“あの写真はボクの特ダネ写真だからネ”と愛機を手に大喜びだった。(記事記載通り)

 

産経新聞

1958(昭和33)年7月8日

豆カメラマンに色紙 ≫ きのう岸さんが贈る

≫ 野毛町純君の出来ばえ、愛国心に感激

衆議院選挙の応援演説にかけつけた岸さんを八つの坊やが豆カメラでパチリととらえた。この特ダネ写真をもらった岸首相、大喜びで早速自筆の色紙を坊やに贈ったというほおえまし話。

横浜市中区野毛二の六五、薬局経営松本屯さんの長男、本町小二年生純君(八つ)がこのカメラマン。選挙戦も終盤戦にはいったある日、桜木町駅前で総理大臣の岸さんが演説するというので純君もおばあちゃんや弟の研君(七つ)=本町小一年=と一しょに見物にいった。人がたくさん集まっていたけれどすばしこい純君、人垣の間をもぐり一番前に出た。それを岸さんが見つけて「ヨー」と手を(振)った(ところを)パチリ。なにせ五百円の豆カメラだし「どうせうつっていないだろう」とお父さんもいっていたが現像してみるとごらんのようなできばえ。

写真に「ぼくも一生懸命勉強しています。岸さんもお国のためにがんばってください」と手紙を添えて送った。これを受け取った岸さん、写真の腕前もさることながら坊やの愛国心にすっかり感激七日「明るく清く正しく強く」認めた色紙を発送した。色紙は八日、同君の家に届くが純君は「額に入れて勉強部屋に飾っておこう」と大喜び。(記事記載通り一部ミスプリ修正)

 

読売新聞

1958(昭和33)年7月8日

ボクのケッ作≫岸首相演説中をパチリ

≫名カメラマンぶりの純ちゃん≫手紙そえて贈る

小学2年生の豆カメラマンが自分で撮った岸首相の写真に、無邪気な手紙をそえ首相に送った。岸さんも感激、自筆の「明るく清く正しく強く」という色紙を額縁に入れ返礼するという。

○…豆カメラマンは横浜市中区野毛町二の六五薬局松本屯さん(三八)の長男本町小二年純君(八つ)。さる五月二十一日岸さんが桜木町駅前で選挙の応援演説をしているところをお父さんに買ってもらった五百円の豆カメラでパチリとやった。小さい体を利用して人ガキの中にもぐり込み一番前で豆カメラを向けた純君を見つけて岸さんはソツのない笑顔をいよいよほころばせ、自動車の上から手を振った。

○…六月の初めころ「ボクのとった写真です。岸さんも元気でがんばってください。ボクもしっかり勉強します」という手紙をつけて送った。お母さんの澄子さん(三三)の話では純君は小さいときから手先が器用、模型つくりや絵を描くのが好きで、三つぐらいからカメラをいじっていたという。「特ダネをとるんだ」と開港百年祭のときも弟の研君(七つ)と一緒にパチパチ写し、作品はアルバムに大分たまっている。純君は「岸さんはテレビで毎日見てるから知ってる人みたい。もう忘れていたのに」とさすがにうれしそうだった。(記事記載通り)

1958(昭和33)年7月8日 朝刊2面 政界メモ

岸さん、小学生にお礼の色紙

○・・・経済基盤強化資金法案を審議中の参院大蔵委員会は七日午後、岸首相の出席を求めて社会党委員が補正予算、不況対策問題で追求したが、岸さん例によってソツのない答弁ぶりで、攻める栗山良夫氏(社)も決め手がなく困っていた。業をにやした同氏、それではとばかり「そんなソツのないことでは困る。聞きたいのは経済基盤の資金を臨時国会でとり崩すのか、またはまったくタナあげしてゆくのか、イエースかノーで答えてもらいたい」と突っ込んだ。これに対し岸さん「私は幹事長や何かのように無責任なことは申し上げられない」と発言し栗山氏を軽くイナしてしまった。
 

○・・・国会の大詰めを控え社会党はこゝらで健全野党のいゝところを見せようと、七日国会対策委で、同日の衆院本会議に松平忠久氏を立てて「中小企業危機突破の緊急質問」を行おうとした。ところがこれを聞いた自民党幹部連、中小企業で先を越されてはまずいとあって、とうとう七日の本会議をとりやめさせてしまった。多数党とは何とありがたいものか。

○・・・子供好きの岸首相は七日午前横浜市野毛町に住む松本純君(小学校二年生)に「正しく、明るく、強く、優しく」【(注)正しくは「明るく、清く、正しく、強く」】との色紙を送った。これは先般の総選挙遊説で横浜に出かけたさい松本少年が岸さんの写真を撮って送ってくれたので、そのお礼というわけ。

 

杉元恒雄先生から自筆葉書を頂く

1958(昭和33)年7月9日消印

 

七月八日毎日新聞で貴君の記事を読みました。この話は一週間ほど前に藤山外務大臣からおききして居りました。本当によかったですね。一生懸命勉強して藤山外務大臣や岸総理大臣のような偉い人になり日本のために働く人になって下さい。おばあさまによろしく(記載通り)

 


1953〜1954年ころ?

祖父松本安治と翌年(昭和26年12月3日)生まれた弟の研(けん)とファミリー写真。

いたずら大好きな子だったそうです。


1950〜1951年ころ?

やんちゃにすくすく育ちました。


1950(昭和25)年 お宮参り

伊勢山皇大神宮へお宮参りをした時の写真です。


1950(昭和25)年4月11日00:45 松本純誕生!


  父 屯(たむろ)       母 澄子

神奈川県横浜市中区野毛町2丁目65番地の自宅で 祖母・松本ツネ(助産婦)にとりあげられました。


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